加藤ドクターの雑記

医学の進歩について考える

1年間にわたって書かせていただいたこの記事も、今回が最終回となりました。これまでのご愛読に感謝いたします。今回は前回の続きをお話ししつつ、全体を総括してみたいと思います。
 まず、前回のおさらいです。前回、下記の図をご覧に入れ、病原体の発見や予防・治療法の発見よりも前から、感染症で死ぬ人はすでに減少傾向にあった、という事実をお示ししました。       (再掲)図 世界の結核死亡率の推移 (1830年代〜1960年代)

 ここで歴史を少し思い出していただきますと、産業革命に早期に成功した各国においては、市民の生活様式が整備されていきました。その中の一つに、公衆衛生の向上がありました。それまでと比べて清潔で安全な水を飲み、より栄養価の高い食物を食べ、より清潔で健康的な住居に住む、というように、生活様式のレベルが少しずつ上昇していきました。実はそのことが、感染症の原因菌の蔓延を防いだり、たとえ感染しても症状が重篤にならない程度に抵抗力(免疫力)がアップしたりして、結果的に感染症が病気として猛威を振るうことが徐々に減っていく大きな理由となったのです。医学の進歩がまったく役に立たなかったなどとは言いませんが、あくまで補助的なものだったとは言えるのではないでしょうか。
 この考え方は、感染症以外の病気についても当てはまります。生き物の身体というのは、まことに絶妙なバランスの上に成り立っているということを、お聞きになったことがあるかもしれません。このことを専門用語で、「恒常性の維持機能」と呼びます。生き物の身体の中は、いつも同じ状態、同じ環境であることを好み、それを保とうとするのです。そこへ病原体のような異物が入り込むと、身体の中で精密に保たれているバランスが乱れます。その乱れを元どおりに戻そうとする力が、免疫力なのです。病原体だけではありません。何かが過剰だったり、逆に不足したりすると、身体はそれを補ってバランスを取り戻そうとします。暑すぎると汗が出て体温を下げようとしますし、食べ過ぎるとお腹をこわして余分なものを排泄しようとしますし、寝不足だったら昼間も眠くて仕方なくなりますね。こういう些細な現象も皆、恒常性の維持、つまりバランスを保つために身体がせっせとおこなっていることなのです。
  ところが、食べ過ぎる習慣があまりにも長く続いたり、タバコの煙という異物があまりにも長く取り込まれたりすると、もはや恒常性の維持機能が間に合わなくなって、身体にとって不必要なはずの物質が血管壁や肺の中に溜まり、バランスが悪いままの状態から戻れなくなってしまいます。逆に言えば、身体の恒常性の維持機能を上手に働かせることに気を使うことで、人は健康を保てるのです。医療はその機能が働くのを促し、うまく機能しない人の手助けをするのが役割であり、健康そのものを維持できるのは個々人なのだということを、いつも意識することが大切なのではないでしょうか。
  長らくのご愛読、ありがとうございました。

自己治癒力とバランス

 わたくしごとですが、お正月休みが明けたばかりのころ、うちの主人がA型インフルエンザにかかりました。今冬はA香港型が流行しているようですが、感染力の強い種類のインフルエンザですので、読者の皆様もご注意いただきたいと思います。主人の場合、発熱があってから治療までの時間が短かったおかげで、比較的速やかに回復しました。
 さまざまな抗生物質や抗ウイルス薬、予防のためのワクチンなどの開発によって、現代を生きる私たちは感染症を必要以上に恐れなくてもよくなってきました(もちろん、油断してはいけませんが)。第二次世界大戦が終わって間もないころまで、わが国の死因第一位の疾患は結核でした。1943年に抗生物質ストレプトマイシンが発見され、結核の治療に用いられるようになって、結核は「死の病い」ではなくなりました。「医学の歴史は病原体と人類との闘いの歴史だ」という言葉がありますが、結核などはまさに現代医学の勝利を象徴する戦果だと言えそうです。
      図 世界の結核死亡率の推移 (1830年代〜1960年代)

 ところが、歴史をもっと広い視野で見てみますと、少し異なるものごとが見えてくるような気がします。上の図は、世界の結核死亡率を1830年代から1960年代までにわたって折れ線グラフに表示したものです。縦軸は人口100万人あたりの死亡率、横軸は西暦年です。太字は、結核の治療にとって特筆すべき発見を表し、その年代がそれぞれ矢印で示されています。もしも医学上のこうした発見によって結核が克服されてきたのであれば、その矢印の前後で大きく死亡率が減少しているはずです。でも実際は、結核の治療薬や予防接種(BCG)の発見どころか、病原体である結核菌そのものが発見されるよりも以前から、結核による死亡率はすでに減少し始めていたのです。これはいったいどういうことでしょう? ここで考えていただきたいのは、感染症の病原体を本当にやっつけているのは何か、という点です。病原体を本当にやっつけているもの、それは生体の中の免疫力です。免疫力をアップすることが、感染症を治癒させるのです。
 この続きは、次回にお話ししたいと思います。

プラセボ効果

 2歳になったばかりの我が家の息子は、公園などで走り回ってはしょっちゅうコケて、顔や膝を擦りむいたりします。当然痛くて泣くのですが、母親である私が傷口に触れつつ、「痛いの痛いの、飛んでけ」と言うと、じきに泣きやんでまた走り出します。男きょうだいのいなかった私にとって、息子のすることは一つ一つが「想定外」の連続です。
 それはそうと、この「痛いの痛いの、飛んでけ」という呪文(?)のようなものは、本当に痛みに効果があるのでしょうか。そんなはずはありません・・・と言いたいところですが、擦り傷だらけでも走り回っている息子を見ると、本当に痛くなくなっているようにも思えます。それなら、こういう実験をしてみてはどうでしょう? 息子がコケた時、私でなくて知らない人に頼んで、息子に呪文をかけてもらうのです。本当に実験したことはありませんが、たぶん、知らない人が呪文をかけても、息子は泣きやまないでしょう。なぜなら、私が呪文をかける場合、息子は母親に優しく言われることで安心を感じるとともに、「お母さんがそう言うなら、痛いのが飛んでくんじゃないか」という期待を持つでしょう。そうした安心感や期待感が、痛みをやわらげたり癒したりしていると考えられるからです。このように、本来は医学的な効果がないはずの行為によって、痛みなどの心身の症状が軽減する現象を、「プラセボ(またはプラシーボ)効果」と呼びます。
 プラセボ効果は、新薬の開発における重要な検討事項です。開発の最終段階では、患者さんに薬を飲んで><いただいてその薬効を明示することが必要です。そのために、患者さんには内緒で、ある人には本物の新薬を飲んでもらい、他のある人には見た目のそっくりなにせの薬(これがプラセボです)を飲んでもらって、確かに新薬を飲んだ患者さんの方が効果が高いことを示さなくてはなりません。ところが、人間の心というのは不思議なもので、本来は医学的な効果がないはずのにせの薬を飲んだ患者さんであっても、「自分は本物の薬を飲んでいる」と信じると、本当に症状が軽くなることが往々にしてあります。そんな理由もあって、新薬の開発には長い年数がかかるのです。
 また、プラセボ効果には医師の態度が影響することが、英国での実験でわかっています。患者さんを2つのグループに分け、一方には「この薬ですぐに良くなるでしょう」と言ってプラセボを飲んでもらい、もう一方には「この薬が効くかどうかわかりません」と言ってプラセボを飲んでもらいました。すると、同じプラセボなのに、「すぐに良くなる」と言われた患者さんのグループの方が、症状の軽減が見られた人の割合が60%以上多かったのです。もともと効かないはずのプラセボが効くだけでも不思議ですが、医師の言葉一つでこんなにも効き方に差が出るということを、私たち医師は肝に銘じなければなりません。
 なお、うちの息子がコケた時、もし私でない若い女の人に「痛いの痛いの、飛んでけ」を言ってもらったら、ひょっとするとすぐに泣きやんで走り出すかもしれません。なぜなら、息子は若い女の人が好きだからです。いやはや、先が思いやられますね。

「病は気から」の不思議

 この記事をお読みくださっているあなたは、ご自分がどれくらい健康だと思っておられますか? 健康診断のデータなどの根拠の有無は問いません。あくまで主観的に、ご自分は同年代の他の人たちと比べて、「とても健康だ」「まあまあ健康だ」「あまり健康でない」「まったく健康でない」のどれに当てはまるか、ちょっと考えてみてください。
 いかがでしょうか。これは疫学(えきがく)という、病気の原因を探究する医学の中の一学問分野の調査において使われる質問項目の一つです。ごく単純な質問ではありますが、欧米などの疫学研究において何十年も前から使われてきました。そして追跡調査の結果、実に興味深いことがわかってきたのです。今回はこの研究についてご紹介しましょう。
 米国の名門大学であるラトガース大学のアイドラーとベンヤミニという疫学研究者の報告によると、「とても健康だ」と答えた人たちと比べて、「まったく健康でない」と答えた人たちは、その後の死亡率が1.5〜3倍も高いということがわかりました。この倍率を男女別に見ると、男性の方が倍率が高い(つまり、男性の方が主観の影響が大きい)こともわかりました。
 この研究結果を読んで、皆さんはどう思われるでしょうか。同世代の人と比べて「まったく健康でない」と答えた人たちは、実際に病気を持っているからそう答えたのだろうから、そういう人たちが早死にしても不思議ではない、とお思いになったかもしれませんね。ところがこの研究では、入院歴や服薬歴などの情報を考慮に入れて、同一条件で比較しても、やはり「とても健康だ」と答えた人たちの方が長生きする、という結果が得られたのです。つまり、健康状態が同じでも、「自分はとても健康だ」と思うか「自分はまったく健康でない」と思うかの差によって、寿命にも差が生じるということなのです。
 なぜ主観が寿命に影響するのか、研究者たちは科学的・客観的な理由をあれこれ探索し続けています。でも、決定的な理由はまだ見つかっていません。はっきり言えるのは、主観つまりこころの働きが、寿命をも左右するほどに重要だ、ということです。それだけでなく、寿命以外にも疾患による機能低下などを予測するのにも、主観が役に立つということもわかってきています。
 ご存じのように、「病は気から」という言葉が古くからありますが、昔の人たちは、上に述べたようなこころの働きの重要性に、経験的に気づいていたのでしょう。疫学研究を通じて、医学はいにしえの知恵にようやく近づきつつある、と言えるようにも思われます。読者の皆さんも、からだの調子が少々悪かろうと、「自分は健康だ」と思うように心がけていれば、いいことがあるかもしれません。
 さて、今回の記事はいかがだったでしょうか。次回もこころの働きの不思議について、また別のお話を書かせていただく予定です。

まっさらな状態にはパワーがある

 ここに文章を書かせていただくのも、初回の自己紹介を含めて、今回で6回目になります。先日、診療の合間に患者様から、「いつも読んでますよ」とお声をかけられました。 それはとっても嬉しいことなのですが、同時に少し気恥ずかしくも感じるのが正直なところです。 と言いますのも、この文章は私の専門外のことについて、個人的な感想などをつれづれなるままに書き記しているものです。 ですから、これをお読みくださっている皆様におかれては、どうか気楽に読み飛ばしていただけましたらありがたく思います。
 ふだん、子どもたちを見ていると、いつもパワーというか、大きな可能性を感じます。これは別にうちの子たちに限ったことではありません。どの子にも、パワーを感じます。 子どもは誰でも、まっさらな状態で産まれてきます。何も色が付いていません。それはある意味では、何も自分ではできない、か弱い状態だと言えるかもしれません。 でも別の見方をすれば、まっさらということは、何にでも染まれますし、どんなものにだってなれますよね。そういう意味で、大きな可能性を感じるのです。 親の役割というのは、子どもの持つ無数の可能性の中から、環境や本人の意向とともにだんだんと形作られ、ある程度の数に絞られていく過程を、横からそっと支えてやることなんじゃないかな、などと思ったりしています。
 ところで、「まっさらな状態はパワーがある」という特徴は、子どもたちだけにあてはまるのではありません。ちょっと難しい話になりますが、人間などの生き物の身体を構成している一つ一つのミクロな要素、すなわち細胞についても、同じことがあてはまります。 読者の皆さんは、少し前に世間をにぎわした、「STAP細胞」という名前をご記憶だと思います。残念ながら、あのあといろんなことがあって撤回されてしまいましたが、なぜ人々はSTAP細胞のニュースにあれだけ大騒ぎしたのでしょうか? それはSTAP細胞の発見者ら(と称する人たち)が、ごく簡単な方法で細胞を「まっさらな状態」にできますよ、と主張したからです。ご存じのとおり、人間の身体を構成する何十兆個の細胞たちはすべて、たった一個の受精卵が成長し分化してできあがったものです。 つまり受精卵は「まっさらな状態」だと言えます。それと同じように、今から眼でも手足でも内臓でも脳でも、何にでもなれる可能性を持ったまっさらな状態に、STAP細胞はなれますよ、と豪語したわけです。 もしそれが本当なら、受精卵というある意味で「人間のスタート地点」である細胞を実験材料に使うという、倫理的に問題のある方法を採らなくても、今、脚光を浴びている再生医学・再生医療に利用することができるので、まさに夢のような話でした。 結局夢で終わってしまいましたが・・・。なお、私は再生医学・再生医療にはくわしくありませんので、ご興味のある方は、関連書籍などをお読みくださるようお願いいたします。
 私のこれまでの記事を読んでくださっている方ならお気づきかと思いますが、今回は中国古典の話が出てきませんでした。でも今回の話題は、次回にふれる老荘思想の核心となる部分と関連してきますので、その前ふりとして取り上げさせていただきました。

夢と現実を区別できるか

 ふだん、子どもたちと話していると、ときどき夢が話題に上ります。あるとき、5歳の娘に「今日はどんな夢を見たの?」とたずねたら、「キティーちゃんが出てきた」と言いました。 サンリオのイラストでしか見たことのないキティーちゃんが、どうやって夢に出くるのか、興味深いです。また、いとこのSちゃん(5歳)は、マクドナルドへ行った夢を見たそうです。 さすが、食いしん坊のSちゃんらしい、と感じました。
 でも、ちょっと不思議に思うことがあります。子どもたちは夢と現実をどのように識別しているのでしょうか。 私が幼いころの記憶では、夢だか現実だかわからなくなってこんがらがってしまうことが、ときどきあったような気がします。 こんなとき思い出すのが、中国古典の『荘子』に出てくる、有名な「胡蝶の夢」という寓話です。荘子は老子の思想を継承し、普及に努めた人物です。

    昔者(むかし)、荘周は夢に胡蝶となる。栩栩(くく)然として胡蝶なり。
    自ら喩(たの)しみて志に適するかな。
    (中略)知らず、周の夢に胡蝶となるか、胡蝶の夢に周となるかを。

     (夢の中で胡蝶となった荘周(荘子の本名)は、
    栩栩然(楽しげなさま)として胡蝶そのものとなっており、
    思いのままに心ゆくまで飛び回っていた。
  (中略)私にはわからない、荘周が夢で胡蝶になっていたのか、
    胡蝶が夢で荘周になっているのか。)

  この寓話は、単に夢と現実がこんがらがったさまをたとえているだけなのでしょうか。そうではありません。「夢を見ているのが胡蝶なのか荘周なのか、誰にもわからない」と言っているのです。 言いかえれば、誰にとっても、「今、見ている世界が本当に現実かどうか」という問いに答えることは不可能だ、ということです。「そんなはずはない。夢か現実かなんて、区別がつくに決まっている」とお思いになるかもしれません。 ここは老子・荘子の哲学(これを老荘思想と呼びます)の核心となる部分で、少々難解なのですが、よく考えてみてください。私たちがふだん見る夢の中で、「これは夢だ」と気づくことはありますか? たぶん、めったにないと思います。 私などもいまだに、学生時代に試験に遅刻して冷や汗をかく夢を見たりします。これはなぜかと言うと、夢の中で、「これは夢だ」と判断する手がかりがないからです。だから現実だと信じ込んで、冷や汗をかいたりするのです。 それと同じように、今、現実だと思っているこの世界だって、「これは現実だ」と判断する手がかりはありますか?単に思い込んでいるだけであって、本当は長い長い夢を見ている、という可能性はないのでしょうか?
 このように、私たちが当たり前のこととして区別している物事であっても、本質的には区別ができないのではないか、と考えてみてはどうでしょうか。そうしたら多かれ少なかれ、世の中の見え方が変わってくるかもしれませんね。

ものごとの両面を見る その1

 私は元来、あまり読書家ではありません。学生時代も、哲学や文学などを読むのは苦手でした。医師になったのち、必要に迫られて、中国の古典を読むようになりました。すると、それまで知らなかった独自の自然観・宇宙観のようなものがあることに、徐々に気がつき始めました。 本稿では、中国の古代思想から私のつたない理解力でおぼろげながらつかみ取ったことごとを、思いつくままに書いてみたいと思います。もとより、哲学的素養がございませんので、誤読や勘違いも多々あろうかとは承知しておりますが、何卒ご海容くださるようお願いいたします。
 さて今回は、「対の思想」と呼ばれる考え方についてお話ししたいと思います。「対(つい)」というのは、二つのものがペアになっている状態を指す言葉ですね。「表(おもて)と裏」とか、「有と無」とか、「日なたと日かげ」などなど。  これらはどれも反対のもの、対立するものどうしです。ところがよく考えてみると、これら二つのものは対立しているとは言え、もしも一方が存在しなかったら、もう一方も存在しえないという関係にあります。表があるから裏がある、日なたがあるから日かげがある、というわけですね。  このように、ものごとには一面だけでなく、常に両面ある、と考えるのが「対の思想」です。中国の人たちには昔から、そういうものの考え方をする傾向があるような気がします。
 私の好きな思想家に、老子がいます。老子という人は、紀元前六世紀ごろに活躍したと言われていますが、実在したかどうかも定かではありません。その老子の思想を今日に伝えていると言われるのが、『老子』という書物です。その『老子』の中に、「有と無とはあい生ず」という言葉があります。  これは、「有」と「無」とは、お互いに相手がいて初めて生まれる、といった意味です。「無」すなわち「存在しない」ということがあるからこそ、「有」すなわち「存在する」ということも言えるのであって、どちらか一方だけでは成り立たない、というわけです。  「本当かなあ」と思う半面、「何やら深遠なことを説いているみたいだな」という気がしてきませんか。
 中国思想とは関係ありませんが、「有」と「無」のたとえとして、私は音楽を思い浮かべます。私は少しだけピアノをたしなむのですが、「有」が音符なら「無」は休符です。休符ばかりの音楽というのはありえませんが、音符ばかりで休符のない音楽というのも、音楽という体を成さないのではないでしょうか。  休符があってこそ音符が引き立ち、豊かな音楽の世界が繰り広げられるのだと思います。ここにも、音符と休符の両面から音楽をとらえる、「対の思想」をあてはめることができます。
 とりとめのない話になってしまいましたが、この「対の思想」は冒頭に述べた、古代中国の自然観・宇宙観とつながっているものです。今後しばらくは、そうした話題を中心に、この紙面で書いてまいりたく思っております。お読みいただき、ありがとうございました。

ものごとの両面を見る その2

 5歳になる我が家の娘は、それはそれは負けず嫌いで、親も手を焼くほどです。お着替えでも食事でも、何でも私や夫と競争したがりますし、勝つことにこだわります。負けると機嫌が悪くなるので、たいていはわざとでも勝たせてやります。「いったい誰に似たんだろう?」といつも不思議に思っています。
 うちの娘が標準的日本人かどうかはわかりませんが、日本文学を研究するある米国人学者によると、「日本人は何でも比べたがって、どちらが良いどちらが悪い、とすぐ言いたがる」のだそうです。 読者の皆さんはどう思われるでしょうか。
  これと対照的なのが、フランス人や中国人なんだそうです。『中国思想を考える』(中公新書)を書かれた金谷治さんによると、「中国人なら、両方あるものは、『これはこうあるもの、あれはああいうもの』というように、まずは両方をそのままに認める」のだそうです。   つまり、前々回、「ものごとの両面を見る」という題名の記事で触れた、「対の思想」が基本なのです。ものごとには両面があって、それぞれに違ったあり方をしていたり、対立したりしているのは、そうなる背景や歴史があってそうなっているのだから、簡単には比較できない、と考えるのです。
この思想をよく表した中国の故事に、「塞翁が馬」の話があります。ご存じのように、国境の砦のほとりに住む一人の老人の身の上に悪いことが起きると、「いや、これは幸いのもとになるでしょう」と言い、 一方でめでたいことが起きると、「いや、これがかえって禍のもとになるかも知れません」と言うのです。実際、世の中の禍福は予測できないもので、ままなりませんね。 中国では、禍のなかに福の兆しがあり、福の陰に禍が隠れているというように、両方を重ねて見ますから、単純に喜んだり悲しんだりしない、苦難の時にも耐え忍んで努力をつづけよう、ということになるのです。 ものごとの両面を常に見ることは、このように人生をたくましく生きていくのに必要な智恵だという気がしてきませんか?
日本人がものごとを比べて良し悪しを言いたがるのも、一概に批判はできません。それがある種の国民性なのであれば、尊重すべきものでしょう。ただ、自分たちとは異なる考え方を持つ人々もいるのだという認識は、持っておくとよいと思います。 たとえば中国の古代思想を理解することから、私たち自身をより深く知ることにもつながるかもしれません。 近頃、日本でも見直されてきている漢方医学は、日本では明治時代に一度切り捨てたものです。 しかし中国では、中医(伝統医学)と西医(西洋医学)との二部門を立てて、両方を大切にしてきたのです。その歴史から、私たちも「対の思想」に学ぶべき点があるのではないでしょうか。
  なお、うちの娘が負けず嫌いなのは、私の夫が負けず嫌いだからなような気がします。いえ、かく言う私自身も、自分で気づかないだけで結構負けず嫌いだったりするかもしれません。  自分自身のことというのは、なかなかわからないものですね。

名前をつけることは世の中を理解すること

 私の息子は1歳半を過ぎたところですが、男の子にしてはずいぶん早くから、おしゃべりをするようになりました。いろんな物を指さしては、「なーに、なーに」ときいてきます。そしてどんどん新しい言葉をおぼえていきます。 「いつの間にそんな言葉をおぼえたんだ?」とびっくりすることもあります。息子はアリなどの虫にもとても興味を持っていて、お散歩の時にアリを見つけると、「ありしゃん、ありしゃん」と言って大騒ぎします。子どもにとっては、この世界は見る物すべてが目新しくて、好奇心をかき立てられるのでしょう。
 前号の文章で、私は中国古典の『老子』を取り上げました。その『老子』の冒頭に、
     「名無し、天地の始めには名有り、万物の母には」
 という一節があります。 「天地」というのは、私の考えでは、「宇宙」のことだと思います。したがって前段は「宇宙の始まりには名前がない」という意味なのでしょう。後段は「万物の母には名前がある」という意味になります。
「名前をつける」ということは、「他のものと区別する」というふうにとらえられるでしょう。前号でも申し上げたように私は哲学思想にも古典にもまったくの素人ですが、子どもの成長する姿を見ていて、この『老子』の一節を自分なりに解釈してみたくなりました。
 産まれたばかりの子どもはもちろん、言葉というものを知りません。自分自身と母親との区別すらつかない状態にあります。すると、先ほどの「宇宙」を「生命」に置きかえれば、「生命の始まりには名前がない」というふうにも言えると思います。 それが、産まれてから半年、一年とだんだん時間がたつうちに、子どもは「お母さんがいて、お父さんがいて、お姉ちゃんがいる」というように、世の中には区別があることに気づきます。そしてさらに、それぞれの区別されたものには名前があることにも気づきます。 物事に名前をつけて区別することを知ることで、子どもにとっての世界の理解が始まる、と言えるのではないでしょうか。そうやって世界の理解が広がっていくことが、「万物の母」という言葉の意味するところじゃないのかな、と思ったりします。 あくまで個人的な解釈ですが、子育てをしながら、古典の言葉について考えてみるのも、楽しい気がします。
 息子にとって、名前をつけて区別することをおぼえるのは、すごくワクワクする体験のようです。1歳になるかならないかのころから電車が好きで、近くを通る阪急やJRの電車を見ては「でんしゃー」と叫んでいました。 でも最近は、電車の中でも「ひかりレールスター」とか「ラピート」とか「ACE」とか「伊勢志摩ライナー」といった、個々の区別に興味が湧いてきたようです。私自身は電車の種類なんてほとんど知りませんでしたが、息子といっしょに電車の絵本を見ているうちに、私も徐々に見分けがつくようになってきました。 息子には、このみずみずしい好奇心をこれからずっと持ち続けていてほしい、と願っています。

自己紹介

 私は大阪市で生まれ、小学2年の時に売布小学校へ転校しました。以来、この地にずっと住み続けております。
家族は、夫と2人の子どもたちです。夫は関西出身ではありませんが、この地をとても気に入り、永住するつもりでいてくれております。関西弁も少しずつ上達してきているようです。
子どもは、上が女で下が男、いわゆる「一姫二太郎」です。 娘は初め、未熟児で生まれましたが、今ではすっかり元気で、ちょっぴりやんちゃな女の子になりました。 弟ができて、しばらくは赤ちゃん返りする時期もありましたが、だんだんお姉ちゃんらしくなってきたと感じます。 息子は、私にとっては毎日が驚きと新発見の連続です。私自身は女きょうだいしかいないため、男の子とはどういうものか、母親になるまでよく知りませんでした。 まだよちよち歩きなのに、「なぜそんな危ない所にわざわざ登ろうとするの?」といつも不思議に思っています。 でも、男の子というのはそういうものなのですね。サッカーの試合を見せたわけでもないのに、おもちゃのサッカーボールをひたすら追おうとする姿を、 「男の子がボールを追いかけたくなるのは、原始時代の狩猟生活のなごりなのかな」などと考えながら、興味深く見ている毎日です。

 私が医師を志したのは、まだ小学生ぐらいの頃からです。私の父の実家は、九州の離島にあり、当時は無医村でした。 時々、その家に遊びに行き、医師がいない不便さの話を聞いたりするうちに、「こういう地域で働くお医者さんになりたい」と幼心に感じました。 その夢がかない、大阪大学医学部を卒業して医師になりました。枚方市にある星ヶ丘厚生年金病院(現・地域医療機能推進機構星ヶ丘医療センター)で研修の後、大学院に戻り、大阪大学微生物病研究所というところで研究指導を受けました。 同研究所では、原因が未解明の疾患を分子レベルで診断する方法の開発に取り組みました。この際、共同研究先の大阪市立大学医学部附属病院で臨床にも携わりました。 博士(医学)の学位を取得した後は、宝塚市立病院血液免疫内科で勤務いたしました。
 こうした研究や臨床医としてのトレーニングを積む中で、私は徐々に漢方医学に関心を持つようになってまいりました。 それは、西洋医学のお薬で効果が見られない患者様において、時として、漢方薬が効果的であることを幾度か経験したからです。そこで、大阪大学医学部漢方医学寄附講座に所属し、それこそ「漢方のいろは」から地道に学び始めました。 平成24年に宝塚市立健康センターに奉職してからも、その学びを続けてまいりました。漢方医学は奥が深く、学べば学ぶほど、その壮大で複雑な思想体系に圧倒される思いです。
まだまだ若輩者ではございますが、地域の皆様の健康と長寿にご奉仕できるよう、臨床医として、また漢方医として、自己研鑽を努めてまいる所存です。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

なみき内科内科・リウマチ科・糖尿病内科

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